本稿の目的は, 社会科学特に社会学的観点から, 東京が持っている新しい発展の可能性を探ることである。その点を当事者たちはあまり自覚していないかもしれないが, 東京文化に焦点を当てて論じてみたい。東京文化に焦点を当てる理由は, 客観的理由と規範的理由とがある。前者は, 文化産業や情報産業が占める割合が, 東京は, 日本の中では極めて高いからである。新しい産業は新しい可能性を生み出そうとしている。その点にまず着目する必要がある。規範的理由というのは, 「文化へのこだわり」である。第二次大戦後, 平和主義を唱え, 主観的には, その平和主義に沿って社会を運営してきたと多くに日本人により考えられてきた。しかし, その実質や, 諸外国に対し, どれだけの影響力や連帯を築いてきたかについては大いに疑問が残る。(もちろん, 全くなかったというわけではないが。)最近の, 社会主義の退潮は, 平和主義をさらに脆弱なものにした。例えていうと, 今までは, 風呂屋の壁の絵程度には意義を持っていたが, その風呂屋自体が取り壊されそうな状態にあるとでもいえばいいだろうか。私がいいたいのは, 平和主義にとって, 文化というのは極めて重要な要素であるということである。文化に基づいた, 経済・政治などが, 平和主義を支える社会的実体として機能しうると思うし, この観点から, 東京文化が捉えられる必要があると思う。
もう一つの目的は, 東京文化を, 単に, 日本という国家の文脈でだけとらえるのではなく, 地球社会, 正確には, グローバルシティと関連づけて分析することである。東京という都市は, そこに住む人々が考えているよりも, 良い悪いは別にして, 現代的性格を数多く持っている。それだけでなく, 国際的競争力を文化は持っている。この点を正確に自覚し, よりよい文化を創ることが切に求められているように思う。しかし, 実際には, 次のような2つの傾向が, ある意味で, 矛盾する動きの中で大きくなってきている。一つは, 極めて強い商業主義的な性格を持つようになってきているという点である。もう一つは, 日本のような文化的多様性を持つ文化の内部で, 依然として, 棲み分けが行われ, 文化同士の混じり合いがあまりみられないことである。特に, 伝統文化や西欧発の新しい伝統芸術文化, そして, いわゆるポピュラー文化の間には, この原理が働いているように見える。この現状の持つ, 意味と問題点についても分析をする必要があるだろう。
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