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AN10030184-20060331-0113  
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Release Date
 
Title
Title フロベールとワイルド : 『ヘロディアス』と『サロメ』における文体とリズム  
Kana フロベール ト ワイルド : ヘロディアス ト サロメ ニオケル ブンタイ ト リズム  
Romanization Furoberu to Wairudo : Herodiasu to Sarome niokeru buntai to rizumu  
Other Title
Title Flaubert et Wilde : écriture et rythme dans Hérodias et Salomé  
Kana  
Romanization  
Creator
Name 大鐘, 敦子  
Kana オオガネ, アツコ  
Romanization Ogane, Atsuko  
Affiliation  
Affiliation (Translated)  
Role  
Link  
Edition
 
Place
横浜  
Publisher
Name 慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会  
Kana ケイオウ ギジュク ダイガク ヒヨシ キヨウ カンコウ イインカイ  
Romanization Keio gijuku daigaku hiyoshi kiyo kanko iinkai  
Date
Issued (from:yyyy) 2006  
Issued (to:yyyy)  
Created (yyyy-mm-dd)  
Updated (yyyy-mm-dd)  
Captured (yyyy-mm-dd)  
Physical description
 
Source Title
Name 慶應義塾大学日吉紀要. フランス語フランス文学  
Name (Translated)  
Volume  
Issue 42  
Year 2006  
Month 3  
Start page 113  
End page 126  
ISSN
 
ISBN
 
DOI
URI
JaLCDOI
NII Article ID
 
Ichushi ID
 
Other ID
304209  
Doctoral dissertation
Dissertation Number  
Date of granted  
Degree name  
Degree grantor  
Abstract
十九世紀末に一世を風靡したファム・ファタルの代表『サロメ』といえば、誰しもが思い浮かべるのはオスカー・ワイルドの戯曲である。ワイルドはビアズリーの挿絵にはじめはそれほど乗り気ではなかったと言われているが、そのモノクロの挿絵はワイルドの『サロメ』の妖艶さや退廃的、破滅的、悪魔的側面を全面に押し出して、読者や未来の観衆の関心を引き寄せることになった。しかしこれを遡ること十六年、ギュスターヴ・フロベールが最晩年の短編『ヘロディアス』においてサロメのダンスを初めて言語化することに成功したことや、ワイルドがフロベールに多大な影響を受け、意識的に初稿をフランス語で書いていたことは意外に知られていない。 『サロメ』は、1891年11月から12月にかけてオスカー・ワイルドのパリ滞在中にフランス語で書かれ、1893年にパリで出版された。本国では上演禁止となり、ロンドンでの出版は1894年となった。ワイルドはフランス文学に精通し、パリの文壇や社交界にも出入りし、ジッド、マラルメ、ピエール・ルイスなどと親しく交流して、マラルメの“火曜会”にも二度顔を出していることが知られている。 当時すでにフロベールは他界していたわけだが、ワイルドはフロベールを文学の師として、美学的にも仰いでいたことが書簡に残された証言からわかる。1888年のW. E. Henley 宛の手紙では、英語で散文を書くためにフランスの散文を勉強していることを述べ、「そう、フロベールこそわが師なのだ。そして『誘惑』の英訳が成功したなら、私は第二のフロベールになれるし、それ以上のものになるだろう。」と『聖アントワーヌの誘惑』の翻訳について意欲を燃やしている。また1890年には、Scots Observer の編集者への手紙で美学的問題に触れ、『ボヴァリー夫人』と『サランボー』を引き合いに出しながら、「フロベールは言葉の日常的な感覚において正しいだけでなく、芸術的にも正しかった。そしてそれがすべてなのだ。」と全面的に尊敬の念を表している。投獄中に友人に読書用の本を依頼した際にも、フランス語文献リストの筆頭にフロベールの La Tentation de saint Antoine, TroisContes, Salammbô を挙げている。一方、Pascal Aquien はフロベールとの関係について、サランボーの名前や巫女というアイデンティティー、ユダヤ人たちの議論、「サロメ」と「ヘロディアス」という主人公たちの名前の拝借、『ヘロディアス』の「ヨカナン」「マナエイ」から「ヨカナン」「ナアマン」という命名をしたことなど、かなり影響があったことを指摘している。 『サロメ』に関するワイルドの証言で特にフロベールに関係あるものを挙げておきたい。まず第一に挙げられるのは、1890 年のエドガー・ソルタスによる挿話で、サロメについて書くと宣言していたワイルドが、ある晩ピカデリーのレストランでソルタスと食事をした後、連れ立ってフランシス・ホープのアトリエをたずねたところ、逆立ちしたヘロディアスの版画が、まさにフロベールの作品のように描かれており、 « La bella donna della mia mente »(「わが夢見る麗しき女性よ!」)と叫んだという話。第二は、アメリカの象徴派詩人スチュアート・メリルとムーラン・ルージュに行ったときの挿話で、ルーマニア娘のアクロバット的な逆立ちの踊りを見たワイルドが、執筆中の劇の中のサロメのダンスを踊ってもらおうと思い、「フロベールの物語でのように、あの娘に逆立ちのダンスをしてほしいんだ。」と言ったという話である。どちらも注目されるのは、ワイルドがフロベールのサロメのダンスの「逆立ちの踊り」にとても惹かれていたということである。また、サランボーへの賛美も惜しまず、ビアズリーの挿絵について批判する際に「僕のサロメはサランボーの妹だ」という表現すらしている。 『ヘロディアス』の中でサロメの踊りの初の言語化に挑んだフロベールの先駆性と象徴性を論じた拙論では、その「逆立ちのポーズ」に読み取れるユダヤ教的世界観からキリスト教的世界観への逆転というメタファーを指摘したが、ワイルドが果たしてフロベールのサロメの「逆立ちの踊り」にこうした意味を読み取っていたかは定かではなく、踊りのト書きにも逆立ちのポーズへの言及はない。その代わり、ワイルドのサロメでは「七枚のヴェールの踊り」というメタファーと月のメタファーが全面に押し出されている。ことにワイルドがサロメを一幕物の劇にしたことから、登場人物の科白の文体が重要な位置を占めており、後にその作品の芸術性は、音楽性としてシュトラウスのオペラが証明することになった。以下、本稿ではワイルドのサロメの文体とリズムをフロベールのそれと比較しながら、『ヘロディアス』のサンボリスムから『サロメ』の世紀末文学への変遷をみることとする。
 
Table of contents

 
Keyword
 
NDC
 
Note

 
Language
日本語  
Type of resource
text  
Genre
Departmental Bulletin Paper  
Text version
publisher  
Related DOI
Access conditions

 
Last modified date
May 05, 2024 18:03:04  
Creation date
May 17, 2007 10:26:52  
Registerd by
mediacenter
 
History
 
Index
/ Public / The Hiyoshi Review / Revue de Hiyoshi. Langue et litterature francaises / 42 (2006)
 
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