アイテムタイプ |
Article |
ID |
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プレビュー |
画像 |
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キャプション |
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本文 |
AN10005325-20040000-0033.pdf
Type |
:application/pdf |
Download
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Size |
:3.0 MB
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Last updated |
:Nov 2, 2007 |
Downloads |
: 1663 |
Total downloads since Nov 2, 2007 : 1663
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本文公開日 |
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タイトル |
タイトル |
小幡篤次郎の思想像 : 同時代評価を手がかりに
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カナ |
オバタ トクジロウ ノ シソウゾウ : ドウジダイ ヒョウカ オ テガカリニ
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ローマ字 |
Obata Tokujiro no shisozo : dojidai hyoka o tegakarini
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別タイトル |
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著者 |
名前 |
住田, 孝太郎
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カナ |
スミタ, コウタロウ
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ローマ字 |
Sumita, Kotaro
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所属 |
東京都立大学大学院修士課程
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所属(翻訳) |
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役割 |
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外部リンク |
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版 |
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出版地 |
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出版者 |
名前 |
慶應義塾福澤研究センター
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カナ |
ケイオウ ギジュク フクザワ ケンキュウ センター
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ローマ字 |
Keio gijuku Fukuzawa kenkyu senta
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日付 |
出版年(from:yyyy) |
2004
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出版年(to:yyyy) |
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作成日(yyyy-mm-dd) |
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更新日(yyyy-mm-dd) |
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記録日(yyyy-mm-dd) |
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形態 |
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上位タイトル |
名前 |
近代日本研究
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翻訳 |
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巻 |
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号 |
21
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年 |
2004
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月 |
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開始ページ |
33
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終了ページ |
88
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ISSN |
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ISBN |
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DOI |
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URI |
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JaLCDOI |
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NII論文ID |
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医中誌ID |
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その他ID |
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博士論文情報 |
学位授与番号 |
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学位授与年月日 |
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学位名 |
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学位授与機関 |
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抄録 |
福沢諭吉が慶應義塾を白発的共同結社として創始したことは周知の事実である。そのことは福沢の思想と事業が結社の共同性に裏打ちされていた可能性を示唆している。そうした観点に立つとき、初期慶應義塾において共同性を最も発揮した人物として小幡篤次郎(一八四二ー一九〇五)を挙げることができる。彼こそは初期慶應義塾を白発的共同結社として性格づけるに要をなした人物であり、その思想的活動は福沢の思想をも支えたと言ってよい。小幡を検討することによって初期慶應義塾における共同性がいかなるものだったかを知ることができるだろう。また、そのことによって福沢のテクストの成り立ちについて新しい可能性を示すことできるのである。小幡は福沢諭吉と共に草創期の慶應義塾を担った人物である。では、なぜ彼はこれまで注目されてこなかったのだろうか。それには四つの要因が考えられる。① 作品数が福沢に比べて目立たないこと。② 福沢の作品に関して重要な内容を含むにも関わらず、それらが啓蒙的著述としてのみ受け止められてきたこと。③ 小幡白身が自らを世に顕現することをよしとする人物ではなかったこと。④ そしてなにより彼が洋学を修めた端緒が福沢による勧誘であったことである。これらの事情により彼の活動が福沢の後を追い、福沢を背後から支えるもののように、すなわち彼を福沢の女房役のように後世の人々が受け止めきたきらいがあったことは否定しがたい。このことが彼の活動や著作が同時代に果たした役割の大きさに見合うほどには注目されて来なかったことを招いたといえる。ところが近年になってそのような小幡観に留まらず彼を能動的な主体として捉え、史料に基づいて彼の足跡を辿ろうとする試みが西沢直子氏によって為されてきた。本稿では西沢氏の業績を踏まえつつ、同時代の人々が小幡をどのようにみていたのかについて展望し、彼が遺した作品の再検討を通して私なりの小幡像を提出してみたい。彼の経歴については西沢氏の業績および富田正文氏による略伝を参照されたい。
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目次 |
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キーワード |
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NDC |
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注記 |
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言語 |
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資源タイプ |
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ジャンル |
Departmental Bulletin Paper
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著者版フラグ |
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関連DOI |
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アクセス条件 |
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最終更新日 |
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作成日 |
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