戦前期日本の普通銀行は,1901年の1,890行を最大としてその後減少を続けた。本論文の目的は三大都市及び東日本本店所在銀行の地域的・階層的視点からその合同の推移を論述することにある。普通銀行の分化の第一の起点は1910年のシンジケート団結成であった。第二の分化の起点は1920年恐慌に求められる。その後20年代後半から30年代にかけて地方的合同の進展がみられ,一県一行主義が完成に近づき三和銀行の設立により五大銀行時代から六大銀行時代に突入した。19年から34年にかけて資金構成の主要因である預金を基準にとると,三大都市内部で五大銀行とその他の銀行との階層分化が進んでいる。資金運用の地域的構成については以下のようになる。34年になると,五大銀行や東北諸県本店所在銀行は有価証券投資へと資金運用の重心を移動させでいるが,群馬・長野・山梨の養蚕諸県本店所在銀行は未だに貸出に運用の重心があった。この貸出も生糸前貸金融体制と結びついたものであった。19年では最上層の20行の預金残高の1/2以上は定期預金であったが,その他の銀行ではこの水準に達していない。全国平均預金残高の2倍以下の預金しか吸収していない銀行では借入金への依存度が高い。34年では,定期預金比率は全国的に安定してきており地方的合同の成果がこの点では認められる。普通銀行を全国平均預金残高の3倍以上の預金を吸収する上層銀行と3倍未満の預金を吸収する下層銀行に分類した場合,以下のような分類が可能である。上層銀行は資金運用難の圧力が大きく貸出への消極的対応を示し,その結果生じる収益減少をカバーするため有価証券投資への資金運用の転換を図ったのに対し,下層銀行は不良貸付回避のための措置を講ずることはなく,収益減少は新たな貸付または固定貸によって免れようとしていた。この下層銀行の整理が34年以降の課題となっていった。
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