藤野正三郎氏は『日本のマネー・サプライ』(勁草書房,1994年,第1章)において,幕末期の貨幣流出高を独自の視点と方法をもって推計し,それが2,000万両近くに達していたにちがいない,という結果を公にされた.氏のアプローチは,佐藤忠三郎の『取調書』より得られる1858年,1869年の金銀貨在高データにもとついて,各種金銀貨の金,銀含有量を集計し,その増減から流出高を推計しようとした点でこれまで他に類例のないものである.また1859~60年の小判流出高,すなわち第1次流出のみならず,その後1868年末までの(銀の)第2次流出,あるいは金の大量輪入の可能性を示唆している点でも氏の試算は注目すべきものである.ここで「幕末期Jとは1859年初から1868年末までの10年間を指すわけだが,藤野推計における第1次流出高は858万両という,「通説破壊的な」ほど膨大な額である.なぜこれぼど大きな-あるいは以下の結論を先どりしていえば「過大な」-数字が導かれたのかを明らかにすうのが,このノートの目的である.第2次流出高もさらにそれを上回って1,099万両という額に達しているが,これについてはむろん後段でその当否を論議する,開港は1959年7目1aであった.修好通商条約(第5条)において同種同量の原則により定められた協定レートは,メキシコ・ドルまたは洋銀1枚(1ドル)=一分銀3個(3分(ぶ))であった.一分銀4個.(4分)・小判1枚(1両)であったから,メキシコ・ドル4枚で小判3枚(3両)と交換できることになる.このとき銀24.64匁と金5.10.匁が交換されることになり,金銀比価はほぼ(1:5)となる.ところが海外の金銀比価はおよそ(1:15)であったので,日本における銀高金安を利用して条約国の貿易商会はむろんのこと, 兵士や外交官たちまで小判を買いこみ, これを海外で売りさばくことに狂奔したという1).メキシコ・ドル⇒ 一分銀⇒小判⇒金ドルまたはメキシコ・ドル(銀)という取り引きで,濡れ手に粟というべきか,彼らは200%の利潤を上げることができた.この結果大量の小判が海外に流出したどいわれている.小判の量目を(1/3)に減らして金銀比価を国際水準に調整する万延改鋳がおこなわれたのは翌年前半(1860年5月)のことたが,開港から改鋳まで小1年の間に-正味は小判の値増し令(1860年2月)までの7~8カ月間-どれ程の小判が流出したか,その見積もりはラートゲンの伝える100万両,三上隆三の推計値80万両と,マックマスター,石井孝,石井寛治の10~15万両という両極端にわかれており ,この間に中間値はない2),ラートゲンの数字は伝聞であり,三上の見積もりは主に一分銀の交換(可能)高にもとづき,マヅクマスターと石井寛治はジャーディン・マセソン商会(英一番館)のヨコハマにおける取引記録からの見積もりである.石井孝は始め一分銀の交換高と貿易額から5O万両余という見積もりをしていたが,のちマヅクマスターや石井寛治の研究を参照して10~15万両へと下方修正したものである3).いずれにせよ,藤野推計値(858万両余)はラートゲンの伝聞値・三上の推計値の8~10倍余に及び,他の3者の見積もりの80倍を超えているのである.
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